2019年東大の世界史[2]解いてみた 解説
2019年 東京大学の 世界史[2]の解説です。
問(1)
19世紀半ば以降、南アジアではイギリスによる本格的な植民地支配が進展した。英領インドを支配する植民地当局は1905年にベンガル分割令を制定したが、この法令は、ベンガル州をどのように分割し、いかなる結果を生じさせることを意図して制定されたのかを90字以内で説明しなさい。
世界史を学ぶ上で重要なのは、
過去:「なぜ起きたか、どういう背景があったか」
現在:「どういう内容か」
未来:「どういう目的か、結果どうなったか」
という風に、3点セットで考えるクセをつけることです。
今回は、「ベンガル分割令」という法律です。
では、情報を整理していきましょう。
その名の通り、ベンガル州、ベンガル地方の分割。
ベンガル地方といえば、インドの東部にあり、
ガンジス川下流域の肥沃な地域です。
この地方は、かつてムガル帝国の一州で、
ベンガル太守が支配していて、
土地生産力が高かったので、
クライヴ指揮するイギリスの東インド会社が
フランス東インド会社の支援を受けたベンガル太守と戦った。
これが1757年のプラッシーの戦い。
結果は、イギリス側の勝利。
クライヴをベンガル知事に任命し、
その後、ザミンダーリー制という
徴税制度を実施して支配した。
これにより、東インド会社は、ただの貿易会社ではなく
土地と人民を統治する機関になった。
さらに時が進み、ベンガル知事に代わって
ベンガル総督をカルカッタにおいた。
時代が進む毎に、イギリスの支配色は濃くなっていく。
産業革命が勃興したイギリスは、
1833年に、東インド会社の商業活動停止を決め、
(特権的な貿易業務を止め、徴税業務を行う機関になった)
完全にインド全体を植民地統治すべく、
ベンガル総督の代わりにインド総督を置いた。
そんなイギリスの横暴が続いた中で、
1857年、
東インド会社のシパーヒー(インド人傭兵)が反乱をおこした。
反乱軍は、ムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世を擁立し、
民衆の支持を得ながら、全インドに勢力を拡大していった。
しかも、この反乱にはヒンドゥー教徒とムスリムが
両方参加した点は、歴史的に大きなポイントである。
また、この反乱を指揮したのは、
「インドのジャンヌ=ダルク」と呼ばれた、
藩王国の女王ラクシュミー=バーイーであった。
これに対して、イギリ側も本気になる。
当時のインド総督カニングは、軍を増強し反撃をはかった。
また、反乱軍には内部対立が生じ、
ヒンドゥー教徒とムスリムの連携がとれなくなり、
さらに、ムガル帝国皇帝を捕らえ、
帝国は滅亡した。デリーも陥落し、反乱は鎮圧されてしまう。
インド側は、反乱で負けはしたが、
結果的に、インド人達の民族意識を高め、
インドの反英闘争の発端となった。
イギリスは、この一件を逆に利用することを思い立つ。
それは、インド人のヒンドゥー教徒とムスリムの対立を
大きくして、統治しようとした。これが分割統治案である。
1905年、当時のインド総督のカーゾンは、
ベンガル州を
東のムスリムが多数の地域と
西のヒンドゥー教徒が多数の地域
とに分け、
法律を施行し、
反英民族闘争の分断を図った。
これに対して、インドは、
今まで親英派であった国民議会派の中の
ティラク、ラージパット=ラーイなど急進派が台頭し、
カルカッタで開催された大会で、
四綱領を掲げて反英運動を起した。
その四綱領とは、
①英貨排斥・・・主に綿布などイギリス商品を購買しない
②スワデーシ(国産品愛用)・・・国産品の購買促進
③スワラージ(自治)・・・自治獲得を目指す
④民族教育・・・自国の利益に即した民族的な教育実施
イギリスは、パネルジーら穏健派と急進はの分断を図り、
急進派に対してティラクを逮捕し、弾圧を進め、
イスラーム教徒に対しては、
インド総督のミントーが
全インド=ムスリム連盟結成を働きがけて、
ムスリム勢力を引き込んでいった。
さて、背景は一段落しましたから、
今回の問題について考えていきましょう。
今回は、
「どのように分割し」「いかなる結果を生じさせるか」を
問われているいるので、
現在:「ベンガル分割令のやり方」
未来:「ベンガル分割令の狙い」
をまとめて答えよう。
模範解答
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反英運動の盛んなベンガル地方を、
東のムスリム多数地域と西のヒンドゥー教徒多数の
地域に分割し、宗教対立によるインドの内部分裂を
引き起こし、イギリス植民地支配を確立しようとした。(87字)
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